建築家のOff Time ( A-Style #102 2015 June 掲載 )
海邦病院
沖縄県宜野湾市にある「海邦病院」広報誌の、表紙を描き続けて20年。赤瓦の家屋、咲き誇るブーゲンビリア、浜辺にたゆたうサバニ舟など、沖縄の原風景ともいえる光景を、アクリル画で表してきた。「自然にしろ町並みにしろ、沖縄の景観の魅力といえば、原色が強く色彩が豊かなこと。この生き生きとした美しさをうまく表現したいと思いながら、毎回格闘しています」と話すのは、建築家の島田潤”画伯”。広報誌は毎年4回発行。「仕事の息抜き程度に気軽に引き受けた」つもりが方々から評判を呼び、気付けば記念すべき第100号が射程に入ってきた。
建築の仕事と絵を描くことは密接な関係があり、スケッチの上手な建築家は多い。ただし島田さんの場合は、もう少し深いつながりがある。
祖父の島田寛平氏は、戦前・戦後期に活躍した、沖縄画壇を代表する画家の一人。総合美術展「沖展」の運営委員を長らく務め、美術教師として高校で教鞭をとるなど、沖縄の美術界に多大な功績を残した人物だ。「物心ついたときから、絵に囲まれた生活。子供ながらに、目に映ったものや心に感じたことを描き表すという行為は、とても自然なことでした」と振り返る。
「三つ子の魂百まで」との格言通り、島田さんにとって絵を描くことは、趣味というより生活習慣の一部だ。仕事であれプライベートであれ、思い立ったらおもむろにスケッチブックを広げて、ペンを走らせる。時には広報誌の制作時のように、じっくりとキャンバスに向き合うこともある。「広報誌は沖縄らしいビビットなイメージを表現したくて、アクリル絵の具を使っていますが、水彩画でも油絵でも、特に手法にこだわりはありません。以前には設計したホテルの客室に飾る絵画を全135室分、ボールペンでスケッチしたり、ロビーに展示する30号の油彩画を制作したこともあります」。
これまで手がけてきた絵画の中で、最も多いジャンルは建築。島田さんが建築の道を志すようになったのは、「小学校6年のときに東京オリンピックで、丹下健三氏が設計した国立代々木競技場を見て感激したから」。それから約半世紀、CG全盛の現代でも、絵を描く機会は減らないそうだ。「手描きのパースは自分の感覚でトーンに強弱をつけられるので、設計の趣旨や意図をより正確に伝えやすいんです」という。同様に広報誌のイラストも、目にした通りの風景にとらわれることなく「自分のイメージを自由に付け加えています。最近は環境を意識して仕事する機会が増えたせいか、絵の中に南国植物を盛り込むことが多くなりました」。
かつて建築界の巨匠ル・コルビュジェは、午前中は絵を嗜み午後から建築の仕事に取りかかったという。「若い頃から常々、いつかはそんな生き方をしたいと願っていましたが、巨匠の域には到底及ばない(笑)」と話す島田さん。「70歳を迎える頃には…」との希望を胸に、今日も建築の仕事と絵の制作に取り組む。